現在を紐解く鍵は過去にあり?その逆もまた真也
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu ワンポイントのTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 150328: 現在を紐解く鍵は過去にあり?その逆もまた真也

忠臣蔵については、以前より吉良家浅野家の「塩の生産地」としてのせめぎ合い説がささやかれるが、吉良家と徳川家の因縁も浮上してきているようだ。

「仇討ち」がどうして成功したかという観点から見る二つの不思議がある。

・ 一つは、吉良家の屋敷が呉服橋門から両国に配置換えになったという疑問。呉服橋は江戸城にも近く仇討ちの場所としては不適切。しかし、両国は武蔵国では無く下総国で、言ってみれば江戸の外。だが、吉良上野介は松の廊下の事件後に高家を辞しているので屋敷替えがあって然るべしという考えもある。とはいえ、仇討ちしやすい場所に屋敷替えしたという解釈もささやかれるのである。

・ もう一つは、赤穂浪士が仇討ちを前に江戸に集結した場所が麹町であること。ここは江戸城半蔵門から甲府に落ちる?ことを前提にして整備されたという甲州街道に近く、旗本屋敷などが多くあり、そのため幕府の警備が厳しかったのではないかという疑問。「人は人の中に隠せ」というから、人口密度が低い麹町よりも下町の方がよかったのではないかという。そのため、「赤穂浪士を幕府がかくまって仇討ちに手助けした」という説も生まれる。

そもそも、徳川家吉良家も三河の出で、昔から両家の水争いがあったともいう。江戸時代になると、幕府は矢作川の流れを変え、その後、吉良家の領地では新田開発ができなくなったという。

三河における吉良家は血筋もいい名家だが、徳川家は土豪上がりと言ってもいい。今にも通じるが、「都会に出て行った若者が田舎に戻りたくない」理由の一つに、「中学校時代の力関係を現在にも持ち込まれるのを嫌う」というのがあるそうだ。これは、いやがる人も多いかもしれないですねぇ。これと同様な気持ちが徳川家が吉良家にもっていたのではないだろうか。吉良家からみたら、「徳川家は今でこそ将軍様って威張っているが、昔は三河のはなたれ小僧の土豪だったんだぜ」と。しかし、徳川家からみたら、「おいらは将軍様だよ。昔の三河での力関係を持ち出されてもなぁ、吉良さん」という感じかなぁ。これでは徳川さんは吉良さんを疎ましく思うのもあたりまえか。

まぁ、半分笑い話ではありますが、今も昔もこのような事例は多いと邪推する(笑)

統計表示