| 「武蔵野」の地名の由来 | |
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■ 武蔵野(むさしの): 東京都武蔵野市
・ 武蔵野の名は「万葉集」にも出てくる。当時は「ムラサキ草」の繁殖地として知られ、平安時代には逃げ水が名物だった。幕末の新編武蔵風土記稿には「西は秩父峯、東は海、北は河越、南は向ヶ岡、都築原に至る」とある。【東京の地名 地形と語源をたずねて 筒井功 河出書房】
・ 武蔵(むさし)
■ 東京の半分を占めた武蔵野
・ 東京の面積の半分を占めた「武蔵野」の「野」は、特異な自然として、古代から「歌枕」などで知られた場所。関東地方全体の地形・地質とその上に広がる植生のあり方からして、なぜこの部分だけが武蔵「野」になったかといえば、理由は明らかに人工によるものであったから。その実態は、原生林を燃やして畑にすること、つまり「焼き畑」を繰り返した結果、豊だった原生林が壊滅して、「月影の入るべき山の端」といった風景を失ったためだった。残された「野」は、木・林・森が形成されず、したがって川もできずに、ただ「乏水(ぼうすい)」地帯として放置された。【出典】
・ 武蔵野が開発されはじめたのは、江戸開府から100年以上もたった享保改革の18世紀になってからである。その後、近代水道の普及によって、それまでの農業上の決定的不利条件は一挙に逆転した。【出典】
・ 東京に集中してきた大工場や勤労者の住宅地開発には、最も安価に造成できる地域となり、武蔵野の人口は戦後に約50万人から400万人と増加した。【出典】
■ 武蔵野台地
・ 昔は、武蔵野台地の東端の上野の山の西郷隆盛の銅像の真下から約11km東の、葛飾柴又の矢切の渡しの対岸の下総台地の岸までが、利根川の河口だった。【出典】
・ 武蔵野台地の高さ
青梅: 180m
立川: 90m
吉祥寺: 50m
新宿: 40m
所沢: 80m
川越: 20m
■ 武蔵野台地の東端の、かつては海だった東京下町低地に面した部分を「山の手台地」という。山の手台地は、北から「上野台」石神井川「本郷台」小石川「豊島台」神田川「淀橋台」目黒川「荏原台」と、四つ川で区切られた五つの台地の総称で、おおむねJR山手線で囲まれた台地の部分だった。本体の武蔵野台地は、青梅を頂点として約14万年前に古多摩川が作り出した扇状地で、北は入間川・荒川、南は多摩川流域に挟まれた東西約45キロ、南北約40キロの範囲。これは、ほぼ東京区部の西半分と多摩地方の東部を占める。この扇状地の上に、約5万年前までの間に、箱根火山の火山灰が降り積もって、それに加えて約8万年前から富士山の火山灰も降り積もってできたのが武蔵野台地である。【出典】
■ 武蔵野台地と東京下町低地、つまり山の手と下町の高さの差は、平均すると約20メートルで、この境に昔から有名な坂が並ぶ。【出典】
■ 武蔵野の位置
・ 「武蔵野」の地域も時代によってその範囲は大きく変化した。「野」とは、地表に生えた樹木を根こそぎ切り倒したり、焼き畑をつくるために樹木を焼き払い続けた結果、雨が地表にとどまれず、いわば砂漠状態になった場所のこと。【出典】
・ 7〜8世紀にかけて、ヤマト政権は渡来人の二次的な渡来地として、武蔵国の高麗郡・新羅郡に移住させて開発させた。当時は、この地方の農法は焼き畑が中心だったため、広大な乏水地帯ができ、その結果として「野」のまま放置された場所が武蔵国の南部に広がった。【出典】