参勤交代
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■ 参勤交代

・ 参勤交代は当初は「参覲(さんきん)」と書いた。「覲」は「まみえる」という意味で、諸大名が徳川将軍家に拝謁することを意味する。三代将軍の徳川家光のころに「参勤」と転字したらしい。

・ 武家諸法度の第二条に、「大名・小名在江戸交代、相定むる所なり」とある。「小名」とは5万石以下。

・ 水戸徳川家のように定府の大名や、譜代大名で幕府の役職(老中など)についている場合には参勤交代はなかった。

・ 肥前の平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」によると、播磨国明石藩主の松平斉宣は、11代将軍の徳川家斉の子で、明石藩に養子にいった。松平斉宣の行列が木曽路を通過する際に、三歳の幼児が行列を横切り、それを切り捨てたという事件があった。これに怒った尾張藩は、御三家のメンツにかけて、「今後当家の領地を通行御無用」とした。しかし、明石から江戸に行くのには尾張藩領の通過は避けられず、しかたがないので尾張藩の領地内は行列を崩して、農民や町民に扮して通過したという。

・ 藩主専用の「厠駕籠(簡易トイレ)」も同道したという。

・ 通常は1年毎の江戸在府であったが、関東地方の譜代大名は6カ月毎の江戸在府、対馬藩は3年に1年の江戸在府、松前藩は5年に1年の江戸在府、水戸藩は江戸定府。

・  加賀前田家の行列は総勢2000〜4000人。加賀100万石の前田家の殿様が1818年の参勤交代で糸魚川宿に泊まった時の宿賃は200文。現代に換算すると、一泊二食付で約5000円。

・  薩摩藩士の参勤交代の費用は約1万5000両で藩財政の約5%をしめた。

・ 参勤交代の時期は決まっており、外様は4月、譜代は6月か8月。

・ 在府と在国は一年、関八州の大名は半年で2月と8月。

# 武家諸法度(1635年)の第二条に、「大名・小名在江戸交代、相定むる所なり」とある。
・ 寛永令では、「毎年夏四月参勤すべし」とある。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 交代寄合の参勤交代は義務ではなく、自発的なものだった。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 八代将軍吉宗は1722年に、「上げ米制」により、大名家1万石あたり米100石(約0.4%)の上納をもって、参勤交代を在府半年、在国1年半に緩和した。しかし、8年後には廃止された。まt1862年には3年に1度に緩和され、妻子の江戸定府の義務もなくなった。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 大名行列の人数は、10万石以下の藩では150〜300人、加賀藩前田家では2500人、最盛期には4000人。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 「下にー、下にー」のかけ声が許されたのは御三家の行列だけだった。他の大名は「片寄れー、片寄れー」とか「よけろー、よけろー」といった。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 飛脚と産婆は行列を横切っても許された。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 1808年の加賀の前田家の参勤交代の費用は総額332貫466匁(約5541両)。【超簡単!参勤交代 ビヨンドブックス】

# 諸大名の年間経費の半分以上は江戸で消えた。加賀藩や土佐藩は6〜7割、秋田藩や越後長岡藩備中松山藩は7.5割。【大名屋敷「謎」の生活 安藤優一郎 PHP文庫】

■ 参勤交代は大名の経済力をそぐためという考えがあるが、必ずしもそうではないようだ。以下にあるように、幕府は一定の基準を設けたが、各大名家はその行列(従者)の数によって、大名の格を世間にアピールするため、行列の数は減らなかったという。加賀の前田家で約4000名、仙台の伊達家で約3600名だったという。ただ結果的には参勤交代は各藩の財政には大きな影響を与え、往復の費用だけでも各藩の財政の5〜10%にも上ったという。これは地方の企業や自治体が東京への出張に予算が必要な現在でも似たようなものかな?

# 参勤交代が明文化された寛永12年(1635年)の武家諸法度の第二条に、以下の文がある。
・ 参勤交代に伴う従者の人数が、近年はなはだ多い。これでは出費も多く、結局は領民にその負担が転嫁され、領民が苦しむことになる。今後は、大名家の事情に応じて従者の数を減らすように努めよ。
・ 享保6年(1721年)、幕府は参勤時の従者の数を定めた。1万石の大名は騎馬侍3〜4騎、足軽20人、人足30人。10万石の大名は騎馬侍が10騎、足軽80人、人足140〜150人。
・ しかし、守られなかったという。
・ 行列の数が減らなかったわけは、その行列(従者)の数によって、大名の格を世間にアピールしていたから。
・ 参勤交代の旅程は1日に8〜9里。
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■ 参勤交代の費用は藩費の5〜10%。
・ 天保2年(1831年)の紀州藩の、和歌山から江戸までの費用は1万2930両(約12億9000万円)。ちなみに和歌山に在国する年の経費は1万1080両。
・ 仙台藩で3000〜5000両。
・ 諸大名の年間経費の半分以上は江戸で消費される(参勤時)。【参勤交代の真相 安藤優一郎 徳間文庫カレッジ】
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■ 参勤交代の道中における藩士の宿泊費や食費は藩の負担だったが、そのほかに出張手当のようなものが支給された。それらは陪臣の同行費用にあてられたが、とても足りなかった。【参勤交代の真相 安藤優一郎 徳間文庫カレッジ】

■ 外国人の参勤交代
・ 長崎のオランダ商館長は、幕府から「オランダ風説書(海外情報をとりまとめたもの)の作成と提出」、「毎年(後に4年毎)江戸に参府して将軍に拝謁する」ことが義務づけられた。
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■ 文久2年に参勤交代は緩和され、参勤は3年毎、江戸の在府は100日に短縮された。また、妻子の帰国も許された。【参勤交代の真相 安藤優一郎 徳間文庫カレッジ】

■ 江戸定府大名

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