| 転封(国替え) | |
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■ 転封(国替え)
# 似たような用語に「移封」がある。
# 転封(国替え)とは、主に江戸時代において、大名家(主として譜代大名)の領地が異動するものをいう。その際に「加増(加転)」の場合もあるし、「減封(減転)」の場合もある。そして、移動先に移動元と丁度同じ石高の領地があるとは限らず、足りない分は他の地域の領地が与えられることも多く、たとえば出羽山形藩の最上家(57万石)がお取りつぶしになったあと、その領地は細分化され、他の地域「たとえば佐倉藩」の領地の一部として割り当てられ、これが飛び地を作る一因にもなった。【参考】
# 国替えの内示、発令、移動(完了)に約半年かかった。【出典】
# 織田信雄は豊臣秀吉の転封の命を拒否し、改易された。国替えを拒否して改易された最初で最後の大名という。【出典】
# 上杉景勝の会津転封に際して、越後の農民も会津に向かったため、越後の農地を耕す人がいなくなった。越後魚沼郡のある村では八割の田で耕作放棄され、農民の九割が会津に転じた。その際に上杉家が年貢の取り立てに窮して徳川家康に「上杉家の不穏な動き」を告発し、関ヶ原の合戦の遠因となったという。【出典】
# 関ヶ原の合戦後に改易になった大名は88家、416万石。減封は5家、208万石。【出典】
# 転封の法則: 関東地方、東海地方、上方(関西地方)に徳川一門(親藩)や譜代大名を配置した。【出典】
# 大坂攻めの準備【出典】
・ 1606年: 譜代の内藤信成が駿府から近江国長浜へ。
・ 1607年: 徳川家康の異父弟の松平(久松)定勝が遠江国掛川から伏見城の城番へ。
・ 1607年: 徳川家康の九男の義直が甲府から名古屋へ(尾張藩)。
・ 1608年: 譜代の松平康重が常陸国笠間から丹波国篠山へ。
・ 1609年: 譜代の岡部長盛が下総国山崎から丹波国亀山へ。
# 転封の際、領地は一時幕府領となり(上知)、のちに転封先の領地を下げ渡される。従って、転封の沙汰が降されると、幕府の勘定所に「郷村高帳(ごうそんたかちょう)」を提出しなければならない。郷村高帳とは、支配領地の村とその石高を記載したもの。【出典】
# 最後には、徳川将軍家(慶喜の跡を継いだ家達)が駿河国・遠江国(70万石)に転封となった。【出典】
# 「改易」とは、本来は「職務交代」を意味したが、中世になると武士の身分および所領を没収する懲罰へと変化していった。【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】
# 関ヶ原の戦いののちに改易になった大名は88家(名)。【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】
# 改易・転封の理由【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】
� 〃鎧�的理由: 関ヶ原の戦いや大坂の陣ののちの戦後処理。
�◆)[�的理由: 武家諸法度違反。お家騒動。乱心。発狂。
�� 族姓的理由: 世嗣断絶(せしだんぜつ)
# 引っ越しの費用【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】
・ 磐城平藩が日向延岡に転封した時の費用: 約20000両(約16億円)。
# 戊辰戦争後に、会津藩は会津23万石から、斗南3万石(実質7000石)に転封となった。この際に、新政府から猪苗代か斗南か選ぶように打診されたが、会津藩みずからが斗南を選んだ。その理由は、会津の課税が厳しく、戦場として焼け野原になったことから、旧領の猪苗代では領民から嫌われて、一揆がおきることを懸念したという。しかし、真相は別にあるらしい。近年の研究では、猪苗代と斗南の選択肢はなかったとされる。【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】