「天野」の名字の由来
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■ 天野(あまの)

【2023/05/23:改編】

# 241位

# 全国に約94000人

# 251位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 藤原南家の天野氏の末裔が多い。旗本の天野家には武田氏の一族が多く、織田信雄に仕えた天野雄光(かつみつ)が祖。【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 伊豆国田方郡天野郷(静岡県伊豆の国市)をルーツとする。藤原南家で、源平合戦で源氏方に属し全国に広がった。【出典

# 遠江国の天野氏は遠景の四代孫の周防七郎左衛門経顕が山香庄(春野町)に入って今川氏に属し、子孫は以後百数十年間、北遠江一帯の豪族になり、元弘年間のころに、新田義貞北条高時を鎌倉に攻めたときに、経顕、経顕、経政父子は新田陣営に加わった。経顕の弟の景光の子の民部少輔政貞は建武年間に、初め北朝方の足利尊氏に属したがのちに南朝方の新田義貞に従い、義貞の没後にその子の義宗、孫の顕政二属して南朝方に寄与した。経政の子の景隆は磐田郡に住んで、秋葉山中に築城して南朝の宗良親王を守護したが、後に北朝方に味方して遠江守、下野守となった。子孫は、徳川家康に敗れた後は武田氏に従い、1576年に再び徳川家康に攻められて落城し甲斐国に逃れた。武田氏の滅亡後には北条氏に属したが、北条氏の滅亡後には一族の栄えた安芸国福山に転じたり、周智郡内で帰農したりした。【出典

# 駿河国にも天野氏は多く見られる。【出典

# 伊豆の天野氏は、遠景以来、天野庄の地頭職を継いだ。建長年間のころに、宇久須村(賀茂村)に天野建郎の名が見え、顕氏は、建武4年に、足利尊氏から天野庄の地頭職を安堵され、延文年間に、地蔵堂村(中伊豆町)の歌之助正忠は原保村(中伊豆町)の妙泉寺を創建した。北条家の家臣の天野次郎右衛門尉景氏は永禄年間のころに、船手奉行となって韮山城(韮山町)を守った。その後、韮山城は豊臣秀吉に攻められて開城し、景氏の妻は一子の多宮(後の助右衛門)を連れて安倍山中の井川村(静岡市)に逃れて、後に岡部(岡部町)に住んで子孫は永住した。【出典

# 安芸国賀茂郡(広島県)の国衆。鎌倉時代末期頃、伊豆国の天野氏の一族の政貞と顕義が、それぞれ安芸国賀茂郡志芳荘(広島県東広島市)の地頭になって、志和東天野氏、志和堀天野氏に分かれた。志和東天野氏は、米山城(こめやまじょう・広島県東広島市志和町志和東)城主で、大内氏に属していたが、大永3年(1523年)に興定は尼子氏方に転じたため大内氏方の陶興房に攻められ、毛利元就の工作で降伏した。以後は、毛利氏に属して、永禄12年(1569年)に元定が死去すると、毛利元就の七男の元政が家督を継いで、右田毛利氏と改称した。江戸時代には長州藩一門になった。志和堀天野氏は金明山城(広島県東広島市志和町志和堀)に拠って、のちに本拠を財崎城(広島県東広島市志和町)に転じた。戦国時代には大内氏に属し、大内氏が滅亡すると毛利氏に属して江戸時代には長州藩士。【出典

# 藤原南家工藤氏流などにみられる。

# 山梨県を中心に東海地方から関東地方南部にかけて多くみられ、特に山梨県東部に多くみられる。

# 山梨県:21位、静岡県:76位、愛知県:81位〜山形県:367位など。

# 石川県の天野家

# 静岡県の天野家

# 愛知県の天野家: 尾張藩士。【参考

# 愛媛県の天野家

# 主なルーツ地: 伊豆国田方郡天野郷(静岡県伊豆の国市)をルーツとする。

# 藤原南家の天野氏は伊豆国田方郡天野郷(静岡県伊豆の国市)をルーツとする。

# 天野家

# 国衆(国人)

# 「天」のつく名字

# 「野」のつく名字

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