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■ 平手政秀(ひらてまさひで): 1492−1553年。織田信秀の家臣。織田信長の守り役になって、うつけ者と言われた信長を補佐した。信秀の死後、自害したが信長をいさめるためという。信長は政秀の菩提を弔うために政秀寺を建立した。【出典】
■ 広沢真臣(ひろさわさねおみ): 1833−1871年。長州藩士。1859年に藩の軍事改革に参加するなど、桂小五郎のもとで尊皇攘夷派として活動。1866年の第二長州征伐の休戦交渉では、幕府方の勝海舟と交渉した。明治維新後には参議になったが、刺客に暗殺された。【出典】
■ 広瀬淡窓(ひろせたんそう): 1782−1856年。折衷学派の儒学者。筑前国の亀井南冥に師事した。その後、教育者の道を選んだ。1805年に、豊後国日田に私塾(後の咸宜園)を開き、日本最大の私塾に発展させた。【出典】
■ 藤田東湖(ふじたとうこ): 1806−1855年。常陸国の水戸城下に生まれた。父親は水戸学者の藤田幽谷で、水戸学藤田派を継いだ。水戸藩主の徳川斉昭の腹心として藩政改革を行い、藩校の弘道館を設立。東湖の水戸学思想は、尊皇派志士に影響を与えたが、安政の大地震で母を助けて圧死した。【出典】
■ 藤原惺窩(ふじわらせいか): 1561−1619年。播磨国の出で、相国寺で禅僧になって、朱子学を学んだ。儒学を体系化して、京学派として確立した。徳川家康に講義を請われたが、仕官せずに林羅山を推薦した。【出典】
■ 二葉亭四迷(ふたばていしめい): 1864−1909年。坪内逍遙と交流を持ち、写実主義小説「浮雲」を言文一致体で執筆。近代小説の先駆者になった。【出典】
・ 本名は長谷川辰之助。坪内逍遙に刺激されて、小説の浮雲を書いたが、自信が無く、かつお金が欲しいために坪内の本名(雄蔵)名義で発表したことを恥じて、自分自身をののしった言葉の「くたばってしまえ」をもじった。【出典】
■ 古田重勝(ふるたしげかつ): 1560−1606年。美濃国の出で、豊臣秀吉の古くからの家臣。古田重則の長男で、秀吉のもとで小田原攻めなどに活躍して、近江国日野を領した。伊勢国の松坂藩の初代藩主で、関ヶ原の合戦では東軍に属し、松坂城を鍋島勝茂から守って、西軍を引き留めた功で5万5000石に加増された。【出典】
# 「参考」
■ 文屋康秀(ぶんやのやすひで): 歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。官人としては卑官のままだった。【出典】
■ 文屋綿麻呂(ぶんやのわたまろ): 765−823年。征夷将軍で公家。薬子の変では、はじめは上皇方に与して捕らえられたが、坂上田村麻呂の嘆願によって助命された。その後、征夷将軍になって、蝦夷征討を命じられた。徳丹城を築いて平定に成功した。【出典】
■ 別所長治(べっしょながはる): 1558ー1580年。織田信長に仕えたが、反逆した。毛利氏の協力を得て、一時は羽柴秀吉の率いる織田軍を制したが、2年の籠城を経て自害した。【出典】
■ 遍昭(へんじょう): 816−890年。歌人で天台宗の僧。桓武天皇の孫。仁明天皇の死を悲しんで出家した。六歌仙・三十六歌仙の一人。【出典】
■ 堀秀治(ほりひではる): 1576ー1606年。堀秀政の長男。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに父とともに参陣。陣中で父の秀政が病死したため家督を継いだ。伏見城の普請工事などで有名。関ヶ原の合戦では東軍に属した。【出典】
■ 堀秀政(ほりひでまさ): 1553−1590年。13歳で織田信長の小姓になった。信長の側近としてつとめ、雑賀攻めや有岡城攻めで功を成した。本能寺の変ののちには羽柴秀吉に仕えたが、小田原攻めの際に陣中で病死した。【出典】
■ 本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ): 1559−1623年。囲碁の棋士。織田信長や豊臣秀吉に拝謁。江戸幕府から俸禄を受けて本因坊家の開祖になって、碁打ち・将棋指しの頭領格として碁所制度の基礎を築いた。【出典】
■ 本多利明(ほんだとしあき): 1743?1820年。経世家。「西域物語」「経世秘策」などを著し、開国論、重商主義、国営貿易、蝦夷地開発、植民地獲得などを主張した。【出典】
■ 本間精一郎(ほんませいいちろう): 1834−1862年。越後国出身の勤王志士。京都や江戸で学び、尊皇攘夷を掲げ、江戸で清河八郎らと交流をもった。薩摩藩や土佐藩で倒幕の仲間を募ったが、やがて疎まれて、同志に殺害された。【出典】
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