伊勢国
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# 旧東海道。

# 現在の三重県の北部。

# 太閤検地での石高: 57万石。伊勢【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。伊勢国は11位。

# 伊勢は昔は「伊制」と書いた。

# 伊勢: 「磯」が転じた。【出典

# イソ: 伊勢を開いた人達は、伊蘇(いそ)=伊都(いと) → 五十(いそ)。伊勢にある川は五十鈴川(いすずがわ・いそすずがわ)。日本書紀の五巻には五十鈴川の上流に伊勢神宮の祖である磯神社があった。従って、この地は伊蘇人によって開かれた可能性があるらしい。伊蘇の別名の伊都と志摩が九州北部で近接するように、伊勢と志摩は近接している。信州上田の伊勢崎、上州の伊勢崎、相模の伊勢原。「崎」は「先」と同語源だから、「伊勢の先の方にある土地」って意味なのか?

# 伊勢国: 磯国(いそくに)、石浜国に由来する。

# 伊勢の語源には、大和国の背の国説や、伊勢津彦が石で城を造ったことから石城(いしき)が「いせ」に転訛したなどの説がある。また「五十瀬(いそせ)」の転訛で、五十鈴川に由来するという説もある。また「磯」や「石」の転訛や、あふれやすい瀬の「沃瀬(いせ)」に由来するという説もある。【出典

# 伊勢国(いせのくに): 旧国名。伊世とも書き、勢州とも略称される。伊勢の名は、「日本書紀」神代紀の一書に「猿田彦神曰、吾則応到伊勢之猿長田五十鈴川上」とあるのが古いものである。国名の由来については、「伊勢国風土記」逸文によると、神武天皇が大和へ入った時、天日別命に命じて数百里東のの神を平定させたが、その名を伊勢津彦といい、この神は国を献上して海を渡って東に去り、天皇はこの国つ神の名を取って国号としたという。【出典】 

# 室町時代の伊勢国の守護一色家など。

■ 伊勢の国号: 旧伊勢国

・ 伊勢の国の風土記にいう。伊勢というのは、伊賀の安志(あなし)の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。この神は、昔、石をもって城(き・防塞)を造ってここにおいでになった。ここに阿倍志彦の神が来襲してきたけれども、勝つことができずに還り去った。それによって名とした。【出典

■ 伊勢国

・ 伊勢の国の風土記にいう。そもそも伊勢の国は、天御中主尊の十二世の孫の天日別命が平定した所である。天日別命は神倭磐余彦の天皇(神武天皇)が、あの西の宮(日向)からこの東の州(くに)を征討されたとき、天皇に随って紀伊の国の熊野の村に着いた。その時、金の烏の導くままに中州(なかつくに)に入って菟田(うだ)の下県(しもつあがた)においでになった。天皇は大部(おほとも)の日臣命に勅して「逆賊、胆駒(生駒)の長髄(ながすね)を早く征して罰せよ」と仰せられた。また天日別命に勅して「はるか天津(あまつ)の方に国がある。ただちにその国をたいらげよ」と仰せられて、天皇の将軍としての標(しるし)の剣を賜った。天日別命は勅を奉じて東に入ること数百里であった。その邑に神があって名を伊勢津彦といった。天日別命は「汝の国を天孫(神武天皇)に献上したどうか」と問うた。すると答えて「私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令にはしたがいかねる」といった。天日別命は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい」と。天日別命は問うて、「お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠立てるか」といった。すると申し上げていうには「私は今夜をもって八風(やかぜ・大風)を起こし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です」と。天日別命は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜ふけになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。古語に「神風の伊勢の国は常世の浪寄する国」というのは、つまりこれをいうのである。天日別命は、この国を手なずけて天皇に復命した。天皇は大層よろこばれ、詔して「国の名は国の神の名をとって伊勢と名づけるがよい」と仰せられ、やがて天日別命にその国の統治をまかせ、宅地は大倭(やまと)の耳梨の村に賜った。【出典

■ 鈴鹿郡(すずかぐん)

■ 度会(わたらひ)の郡: 旧伊勢国。三重県度会郡。

・ 風土記にいう。そもそも度会の郡と名づけるわけは、畝傍の橿原の宮に天の下をお治めになった
神倭磐余彦の天皇(神武天皇)が天日別命に命じて国を探し求められたとき、度会の賀利佐(かりさ)の峰に煙が立っていた。天日別命はそれを見ていった。「ここに小佐(長)がいるらしい」と。使者をやって見させると、使者は帰ってきて「大国玉の神がおります」と申し上げた。賀利佐に行くと、その時、大国玉の神は使をつかわして天日別命をお迎え申し上げた。それでそこに橋を造らせたが、まだ造り終えないでいるのに来てしまったので、梓弓をもって橋として渡らせた。ここで大国玉の神は弥豆佐々良姫命を(天日別命に差し上げる女として)連れて来て、土橋の郷の岡本の村にお互いにお迎えした。天日別命は国見のためここに来ていたが出合っていうことには、「刀自(貴女)にちょうど渡り会った」と。そういうわけで郡の名としたのである。【出典

■ 宇治の郷: 伊勢国度会郡宇治郷(三重県)

・ 風土記にいう。宇治の郷は、伊勢の国の度会(わたらひ)の郡の宇治の村の五十鈴河の河上に宮社(みやしろ)を造って太神をいつきお祭り申し上げた。これにちなんで宇治の郷を内の郷とした。今は(内を)宇治の二字をもって郷の名とした。【出典


# 続日本紀文武天皇2年(698年): 9月28日: 近江国に金青(こんじょう・紺青とも書き、青色の顔料)を献上させた。伊勢国には、朱沙(すさ)・雄黄(ゆうおう)、常陸・備前・伊予・日向の四国には朱沙(すさ)、安芸・長門の二国には金青(こんじょう)・緑青(ろくしょう)、豊後国には真朱(まそほ)を献上させた。(いずれも顔料)

# 続日本紀大宝元年(701年): 2月16日: 泉内親王を遣わして、伊勢の斎宮(いつきのみや)に待らせた。

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