肥前国
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# 旧西海道。

# 現在の佐賀県長崎県

# 太閤検地での石高: 31万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。肥前国は30位。

# 郡は十一所。郷は七十。里は百八十七。駅(うまや)は十八所(小路)、烽(とぶひ)は二十所(下国)、城(き)は一所、寺は二所(僧寺)。【出典

# 肥前(ひのみちのくち)の国は、もと肥後(ひのみちのしり)の国と合わせて一つの国であった。昔、磯城島(しきしま)の瑞垣の宮に天の下をお治めになった御間城天皇(みまきのすめらみこと・崇神天皇)のみ世に、肥後の国、益城の郡の朝来名(あさくな)の峰に、土蜘蛛の打援(うちさる)・頸猴(うなさる)の二人があった。徒衆(手下)を百八十余人ひきいて天皇の命令に従わず、どうしても降伏しようとはしなかった。朝廷では勅して肥君(ひのきみ)らの祖健緒組(たけをくみ)を遣わしてこれを討伐させた。そこで、健緒組は勅を奉じてことごとくこれを討ち滅ぼした。かたがた「健緒組は」国内を巡歴して国情を視察して歩いたが、八代の郡の白髪山までくると日が暮れたので宿泊した。その夜、大空に火があり、ひとりでに燃え、しだいに降下してこの山に燃えついた。それを見て健緒組はおどろき怪しんで、朝廷に参上して申し上げて、「臣(わたくし)は、かたじけなくも大君の命令を受けて遠く西の蛮人どもを討伐すると、刀の刃を血ぬらずに畜生のような凶賊どもは自滅いたしました。大君の御威光によらなかったら、とうていそのようなことはありえなかったでしょう」といい、またさらに燃えさかる火の有様をすっかり天皇にお聞かせした。天皇は勅して、「お前の申すことはいまだかつて聞いたことのないことだ。火が下った国であるから火の国というべきである」と仰せられ、やがて健緒組の手柄を賞して、姓名を賜って火君(ひのきみ)健緒組といい、そのままこの国を統治させることにし給うた。これによって火の国といったが、その後国を二つに分けて、前(みちのくち)と後(みちのしり)とした。【出典

# 纒向の日代の宮に天の下をお治めになった大足彦天皇(景行天皇)は、球磨贈於を註滅して筑紫の国を巡察された時、葦北の火流れの浦から船立ちされ、火の国にお出ましになったが、海を航行しているうちに日は没し夜は闇く、船を着ける場所もわからなかった。すると、突然はるか行く手の前方に火の光が見えた。天皇は船頭に勅して「まっすぐに火のところを目指せ」と仰せられたので、お言葉にしたがって行くと、はたして海岸に着くことができた。天皇はお言葉を下して「火の燃えるところは、そもそも何という国なのか、また何者の火であるか」と問われると、土地の者は答えて「これはすなわち火の国の八代の郡の火の邑でございます。ただ誰がその火の主なのかは知りません」と申し上げた。その時天皇は群臣に仰せられて、「今この燃える火は人間の火ではあるまい。火の国と名づけたわけは、まさにその理由があることだとわかった」といった。【出典

■ 松浦郡(まつうらぐん): 肥前国(佐賀県)

・ 「まつら」ともいう。「魏志倭人伝」に見える「末盧国」は「まつろ」と読むのであろう。現在の唐津(からつ)市を中心とする末盧国の所在から次第に九州北西部一帯の平戸・五島までを含む広い地域を指すようになったと考えられる。「古事記」「先代旧事本紀」などには末羅県・末羅国造の名がみえる。「肥前国風土記」「延喜式」には肥前国松浦郡があり、「肥前国風土記」逸文には松浦県とある。「和名抄」では「万豆良」と訓じている。「肥前国風土記」の神功皇后伝説では、郡名の由来を「希見(めずらし)」(梅豆羅志)国に由来すると伝える。【出典

・ 神功皇后(息長足姫・おきながたらしひめ)が新羅の征伐に行く途中、この郡の多摩市までの小河のほとりで食事をとった。このとき、神功皇后は針をまげて釣り針とし、飯粒を餌とし、裳(腰から下の衣服)の糸を釣り糸とし、河の中の石にのぼり釣り針を下げて祈った。「朕は、新羅を征伐し、かの地の財宝を求めんと欲す。そのことが成功し凱旋するならば、細き鱗の魚(鮎)、朕の針と糸を飲め」。そして、釣り針を投げ入れると、すぐに魚が釣れた。皇后は「はなはだ、めずらしきことだ」と、言ったので、それによってこの地を「希見国(めずらのくに)」といい、それがなまって松浦郡となった。

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