名字と地名の独り言2017 | |
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■ 171215: 奈良時代には集落のことを坪と言った。
■ 171215: 内裏は1227年の焼失後は再建されず、その跡地は内裏跡の荒れ野から転じて「内野(うちの)」と呼ばれた。
■ 171206: 10世紀になると、原則として摂関家の娘でなければ、皇后または中宮にはなれなかった。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】
■ 171206: 鎌倉幕府を開いた源頼朝は摂関家を分裂させることによって貴族勢力の低下を図った。
それが、近衛家と九条家ができた始まり。そして、近衛家から鷹司家がわかれ、九条家から二条家と一条家がわかれた。これら、五摂家は明治時代には公爵となった。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】
■ 171206: 伊勢神宮の神職家: 斎宮となった皇女は神の妻として、生涯独身で過ごした。伊勢神宮の実権を握っていたのは内宮の荒木田家と外宮の度会家。渡会氏はもとは磯部氏という伊勢の航海民の首長だった。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】
■ 171118: 所変われば、沖縄では「東」を「あがり」といい、「西」は「いり」という。「西」は「西表(いりおもて)」で有名だが、「東」は「東江(あがりえ)」などという地名がみられる。
■ 171010: 江戸時代に約7万あった「村」を、明治22年に市制・町村制をしいて1万5千に集約した。戦後は、昭和の大合併により約3千に集約され、平成の大合併で約2千になった。【消えた市町村名の謎 八幡和郎 イースト新書】
■ 171010: 古代韓国語に地名の起源があるという節が流行ったことがあるが、まったく根拠はない。古代の百済語は書き言葉になったことがないため、まったく実態がわかっておらず、何を主張しても思いつきでしかない。【消えた市町村名の謎 八幡和郎 イースト新書】
■ 171010: 寺の数: 日本書紀の推古天皇32年(624年)9月丙子条に「寺四六所」とあり、畿内を中心に46の寺があり、869人の僧、1385人の尼がいたとされる。【風土記謎解き散歩 新人物文庫】
■ 170929: 農民の収入: 武蔵国豊島郡徳丸村(東京都板橋区)における一例。夫婦二人暮らしで、繁忙期には日雇いを一人雇った。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社】
■ 170805: 江戸時代以前は夫婦別姓が基本。(例:源頼朝+北条政子、足利義政+日野富子)【出典】
■ 170803: 鎌倉時代は分割相続が原則なので、嫡男以外の兄弟は本家の近くに分家し、その地名を名乗ることが多かった。【名字でわかるあなたのルーツ 森岡浩 小学館】
■ 170802: 江戸時代には黒潮のことを「黒瀬川」といった?
■ 170725: 「何をやったか」という物差しより「誰がやったか」という物差しの方がまかり通る。【小説 遠山金四郎 童門冬二】
※ たしかにそうだ。
■ 170720: 内田康夫の「琥珀の道殺人事件」に、「キャラバン隊メンバーで市会議員の長内忠雄氏はこの付近一帯を支配していた豪族の末裔らしい」と出てくる。
※ たしか、久慈市の市会議員だと。
■ 170711: 徳川家康は組織の分断管理が得意で、幕府のあらゆるポストを複数制にした。(例:江戸南北町奉行)。なるほど。
■ 170630: 称制: 皇后あるいは皇太子が、天皇の崩御後に即位せずに国政を掌ること。
■ 170619: 礼法家の伊勢貞丈の家訓: 「夫は男なるゆえ心行われたれども、妻は女のことなれば知恵たらずふつつかなる事多し」【参考: 考証 大奥 稲垣史生】
■ 170619: 関東管領の表と裏の境目には「大戸」があった。【参考: 考証 大奥 稲垣史生】
■ 170612: 不安や恐怖を克服するには、起きてほしくない事態の可能性を否定する心理が働く場合がある。
・ ジャレド・ダイアモンド(文明崩壊)の一説に以下のような内容がある。
ダムからある程度近くい住む人々が最も決壊を心配し、遠くなるほど関心が薄れる、ダムの間近に住む人は決壊を全く心配しない。
つまり、間近に住む人は危険を忘れることで日常を保っている。危機意識を持ちながら生活していくことは困難。【古地図が語る大災害 本渡章】
※ 津波被害や原発事故にも相通じるものがありそうだ。
■ 170605: 2007年に纒向遺跡の溝の跡の土壌成分を分析したところ、紅花の花粉が大量に検出された。これは、日本最古の紅花の検出という。【激変!日本古代史 卑弥呼から平城京まで 足立倫行 Asahi Shinsyo】
■ 170605: 古墳時代に箸が使われた証拠はなく、当時は手づかみで食べていたらしく、箸を使用したのは7〜8世紀という。【激変!日本古代史 卑弥呼から平城京まで 足立倫行 Asahi Shinsyo】
■ 170220: 徳川260年に時世で島原の乱を除けば国内に戦乱はなかった。これは世界的にも珍しい。2017年現在でも、第二次世界大戦後70年ほどでにすぎない。
■ 170214: 鮎: 中国では「ナマズ」を意味する?【日本語雑記帳 田中章夫 岩波新書】より
■ 170207: 「歴史学者は史料に縛られる」か、なるほど。
■ 170206: 築山殿の子は信康と亀姫。信康の正室は信長の娘の徳姫。
■ 170129: 湖東三山って、山のことか?寺のことか?
■ 170129: 城下町の人口の目安は、石高1万石で4〜500人。